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2011年10月31日月曜日

ナンバーガールとは一体何だったのか?


ナンバーガールとは一体何だったのか?

解散して9年になる。
その後のあらゆるバンドに影響を与えた。一般的にはCDの売り上げも知名度もそれほど爆発的人気を誇ることはなかったが、今現在も音楽関係のみならず様々なアーティストにファンが多くいる。『ナンバーガール』がひとつの代名詞にもなる。『ナンバーガールっぽい』という形容詞だってある。多くの若いバンドマンが彼らに憧れている。だけど彼らのサウンドには近づけても、その世界観にはなかなか近づくことはできない。

日常に潜む狂気。凛々とした少女。都会の喧騒。祭囃子。他では体験できない世界がナンバーガールにはある。

たった4枚のアルバムを発表して解散したナンバーガールは、これまでの日本のロック史にはなかった日本語ロックの新しい形を提示していた。内面を激情の言葉にして叫ぶバンドは数多くいる。だけど、気持ちは高ぶっているのにどこか自分はその場所にいなくて、傍観している。それを叫ぶのが向井秀徳(Vocal/Guitar)であり、彼の独特な歌詞世界がナンバーガールの大きな個性だった。
田渕ひさ子(Guitar)、中尾憲太郎(Bass)、アヒト・イナザワ(Drums)というメンバーにより奏でられる、鋭くて殺傷力のあるギター、爆発音にも似たベース、マシンガンのように常に撃ち鳴らすドラム。ライブバンドとしても圧倒的なテンションでその存在を知らしめ、ただでさえ個性溢れる音楽なのに、そこに更に向井の独特な言い回し、造語、描写が歌詞で乗っかっていく。

元々アートシアターギルドの映画を好んでいる向井は、1970年代、80年代の日本映画にも通じる世界観を音楽に表していたように思う。それはイラストでも、ヘルメットを被り、角材を持った全共闘の青年を描いたライブのフライヤー、17才の少年による政治家・浅沼稲次郎刺殺事件の光景を描いたCDの裏ジャケットに反映されている。
また、歌詞にも林静一の1970年代の漫画『赤色エレジー』が登場し、曲のタイトルも『転校生』といった大林宣彦監督の同名映画を匂わせる。他にも、ミュージックビデオのゴシック体のテロップの出し方などにもスタンリー・キューブリック監督作品の影響が見られ、向井が監督した『タッチ』のPVは森田芳光監督の『家族ゲーム』のオマージュであり、どこかしら20年以上前の青春に憧れを抱いているように思われる。
過ぎ去った時代の若者の熱さと、現代の若者の冷え切った日常。こういった対比と、どこか共通する退屈。それらがさりげなく散りばめられ、音楽という枠を越えようとし、現代を描こうとする姿勢が伺える。

向井は"少女"で現代を描こうとした。
CDジャケットには向井によって様々な少女が描かれている。しかし、どれも目が描かれていない。輪郭だけがあり、顔と表情は分からない。そこにあらゆる女の子を自由に投影できるかのように、 抽象的なイメージだ。
映画のように登場人物を用いて、何かを主張する。向井は「少女」や「あの子」を登場させて、景色を真っ暗闇にも清々しい青空にも変えてしまう。向井自身の一人称は存在しても、どこか遠くにいる。彼の記憶と妄想の中で薄っすらとした曖昧なシーンが、具体的な言葉で綴られていく。
ほとんどの歌というものが自らの考えや気持ちを率直に綴った"コラム"であるならば、向井の歌は"物語"を綴られた感覚に近いのかも知れない。
あたかもナンバーガール=番号少女と言い表してるかのごとく、その世界には数多くの少女が存在し、笑っている。
「透明」「日常に生きる」「Sentimental」「真っ昼間」「DESTRUCTION」「性的」「黒目がち」などと名づけられている。向井の中で生きる少女はどこかすべて 共通しており、儚げで寂しい。
そして「嘘笑い」がとても多いのだ。
ナンバーガールの重要な部分はこの「笑い」に関する向井の洞察だろう。

「赫い髪の少女は早足の男に手をひかれ うそっぽく笑った」(『透明少女』)
「暴力的なジョークで死にたい あの子は笑う 笑い狂う 殺人的に」(『Sentimental Girl's Violent Joke』)
「風 鋭くなって 都会の少女はにっこり笑う」(『鉄風 鋭くなって』)
「笑って あの子 歩いた夜を忘れん それは土曜日の夢しばい」(『TUESDAY GIRL』)
「あの子は今日も夕暮れ族で 半分空気 笑って走り出す」(『I don't know』)
「女は笑いながら ただ待っている ただ一人待っている」(『Tombo the electric bloodred』)

少女が笑っている描写があまりにも多く、それが単に笑って楽しんでいる様子では受け取れない。自嘲気味に、嘘っぽく、笑っている。『タッチ』に「それでも奴ら笑い合う」とあるように、笑いをシニカルに受け取っている。笑いには嘲笑、嘘笑いなどと後ろ向きな言葉がある。絶叫して歌われることで、その笑顔を悲しくも切なくも感じることができる。

誰しも日常に生きる中、作り笑いなんて幾らでも見てきたはずだ。それは相手に対する優しさもあれば、自分を守るための手段でもある。純粋・無垢な少女だって、残酷なまでに笑顔を作る。向井は人間の裏側にある本質を「笑い」の面で探ろうとしていたのかも知れない。
笑い、笑われ、笑ってあげる。取り繕って生きるしか道はない。そんな青春を疑い、ブチ切れたかのように叫ぶ。1970年代頃のロックの、いわば社会に向けられたものではなく、青春への反逆だ。ナンバーガールは、本当の意味での"青春パンク"だった。

福岡で活動していた頃に制作された1st ALBUM『SCHOOL GIRL BYE BYE』と、東京でEMIに所属してから制作された2nd ALBUM『SCHOOLGIRL DISTORTIONAL ADDICT』(録音は福岡)とでは、その少女への洞察に変化が見られる。
グラスの向こうでキラキラ輝いて見える少女に別れを告げるかのように、都会に出てきてからは彼女たちの歪んだ日常を妄想している。それでも『透明少女』はギリギリにも美しく、嘘っぽく笑う。しかし、やがて3rd ALBUM『SAPPUKEI』にもなれば、向井自身が感じた東京の都会の喧騒、闇、不安が少女に投影されており、歪みに歪みきった姿が描かれている。

4th SINGLE『URBAN GUITAR SAYONARA』に収録されている『Sentimental Girl's Violent Joke』『真っ昼間ガール』の2曲は、寂しげな少女が歌われている。笑いまくるセンチメンタルな女の子。落っことしてほしい女の子。SCHOOL GIRLの頃では考えられなかった、大人になった少女をイメージしている。
「真っ昼間から 飛び降り自殺見ちゃった アッ夏のかぜ すずしいね スカートふわり」
まるで感情なんてものを自ら殺し、無感覚に浸ったような女の子が歌われている。後に4th ALBUM『NUM-HEAVY METALLIC』の『性的少女』にあるような「記憶を自ら消去した」という女の子の原型なのかも知れない。

そんな女の子たちの極めつけは『TRAMPOLINE GIRL』だろう。
都会のど真ん中で飛んだ女の子が歌われているが、「飛ぶ」ことが一体何なのかは具体的に描かれていない。清々しくも惨くも想像できる。背が高い草の上を飛ぶ花粉にも例えられ、歌詞は直接的な言葉を避け、幻想を織り交ぜている。
「ゆらいで 傷ついて 飛ぶ」という描写から、飛び降り自殺さえ想像できてしまう。
『真っ昼間ガール』が見た自殺とは、都会の喧騒で力強く惑わされることなく飛ぶ女の子のことではないだろうか。
それを「完全勝利」と呼ぶことに、『SAPPUKEI』というアルバム名に説得力を感じる。どれほど殺伐としてしまったのか。飛ぶことが勝利なのだろうか。そんな「オレ」の鬱屈とした精神状態が少女を通して伝わり、それが鋭く尖った音で演奏されているのだから切迫感があるのだ。
また、『YARUSE NAKIOのBEAT』で男が街を眺めている都市公団の団地の6階。1960年代までに建てられた団地のほとんどは5階までしか存在しないらしい。だとすれば、6階とは屋上のことだと考えられる。
「1979年に起こった事件なのさ」
一体何の事件が起こったのか。それは、向井が後にhal&54-71に提供した曲『6階の少女』も6階であることも手がかりとなりそうだ。
6階という屋上が、まるでTRAMPOLINE GIRLが佇んだ場所にも思えてしまう。中途半端な緑の町でもあり、都会のど真ん中でもある。そういった意味でも『SAPPUKEI』のクライマックスに持ってきただけある。向井の"ナンバーガール"が何かのドキュメンタリー映画を観ているかのようなドラマチックな展開になる。それを「腐れきった感傷」と言い表す『BRUTAL MAN』がなんともやるせない。
「洞察の裏側にある冷笑」
その行き先は「オレ」と叫び、都会をトランポリンのように飛んだ女の子もやっぱり「笑っている」と歌われていた。

このように、向井は曲と曲とで世界を繋げている。それも少女が別の少女を目撃し、YARUSE NAKIOが6階から眺める景色を描くように、どこか自分は離れたところにいて、傍観している。
そして少女が飛ぶことに美しさも悲しみも含み、ダブルミーニングにもなり、解釈の幅を広げている。単なる妄想なのかも知れない。だけど、聴いていると感情が揺らいでしまう。
これは一人称で心情を吐露するように叫んでいては決して表現できない、独特な表現方法だろう。
"ナンバーガール"は一つの物語として歌われ、その物語の中に埋もれていく感傷を楽しめる。
退屈だからこそ、感傷さえも娯楽になる。
少女が煙草を吹かしながらわざと感傷に浸っているように、ナンバーガールを聴くとそんな感覚があるのかも知れない。
ナンバーガールみたいな女の子はいる。
よく笑う。家に帰ると、笑った分の頬の痛みを感じる。玄関を出て眺める景色はいつも同じ。そりゃあ誰かと話したいし、さらってほしい。時には繋がりたい。忘れたい過去もある。いつでもゆらぐし、傷つく。それでも日常に生きるしかない。並木道に自分の影が伸びて、存在していることを知る。空気の冷たさに気付き、半分空気となり、また笑って走り出す。
少女はいつだって笑っている。
それを悲しいと捉えるか、美しく思うか、いつだって気分によって変わってくる。
過去も現在も、女の子はみんなナンバーガールだ。
だからこそ、記憶と妄想を行ったり来たりするように、いまだにナンバーガールの音楽が鳴り止まないのだ。


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