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2011年3月20日日曜日

東日本大震災

地震が起きた。

そのとき僕は神奈川県川崎市の自宅にいた。電話中だった。ちょうど近所で小学生か誰かがリコーダーで『アルマゲドン』のエアロスミスの主題歌を吹いているときだった。ヘタだった。周辺では最も古い建物で知られる僕の住むアパートは揺れに揺れた。もともと強風や電車が通るだけでも揺れるので、電子レンジが落下した時点で「逃げるわ」と電話相手のチッツのボーカル・菱田氏に告げた。そして近所でもエアロスミスのリコーダーが中断された。

いつもは突然の奇声で知られるお隣さんも、このときばかりは奇声を上げずに冷静に逃げていた。お互い揺れる我が家を眺めながら「潰れそうですね」「はい」という冷静さを失った会話をした。
揺れがおさまり、家に戻ると色んな物が落下していた。大切にしていたディズニーアニメ『チキン・リトル』の人形が真っ二つに割れていた。部屋の人形を元に位置に戻し、エアロスミスのリコーダーもまた聞こえてきた矢先、再び揺れた。さきほど元に戻していたものがすべて落下し、リコーダーも中断された。

テレビをつけるとお台場のビルから黒煙が立ち上り、東北地方が震源地で、震度7。阪神大震災のときに兵庫県で体験した、あの震度7だった。

震度3くらいの余震が続き、風呂場から音がした。浴槽カバーが落ちる音だ。壁に亀裂が入っていた。元々入っていたかも知れないが、明らかに新しく入ったとみられる亀裂があった。突然の新入りのヒビに顔見知りをし、現実から目を背けようと、すぐに風呂場のドアをパタンと閉めた。神奈川県でどうしてここまで。テレビで流れる映像では横浜駅近くのデパート下の地面が割れていた。

「とりあえず家の中は危険だ」と大切なものをカバンに詰めて、近所の高台に避難しようとした。カバンの中にはいつも被っているニット帽と、愛用のビデオカメラ。変態みたいだ。いつもの用意と全く変わりのない無防備な状態で、無軌道な旅に出てしまった。「むしろ今のほうがもっと危険だ」と思い直し、家に戻った。

twitterではRTとリツイートの嵐。情報のバケツリレーが行なわれていた。バケツの中を確認する人もいれば、しない人もいる。ただ、必死で、正義感にあふれているのは共通していた。「拡散希望」「RT希望」と文字が並び、視覚的には日本中が希望に包まれているかのようだった。僕は希望することがなく、希望さえ持てず、ただ余震に震えるしかなかった。

テレビは映画のような、とはいえ、映画でも見たことのない映像が流れており、地震を体感したはずなのに、現実味を失ってしまった。
twitterでは情報が拡散されるのと同時に、誰かが嘆き、悲しみ、何者かに怒り、苛立っていた。まるで世界が終わるかのような悲観的な呟きをする人もいた。あらゆる負の感情が乱発されているようだった。
しかしその一方では誰かと誰かが助け合い、励まし合っている会話がタイムラインに流れた。携帯もろくに繋がらない状態だったので、twitterでやり取りしている人も少なくはなかった。
その日は寝付けず、結局朝まで起きていた。心臓が常にバクバクしている様子だった。地震が怖かった。外が明るくなるまで待とうとした。頭にはヘルメットを装着していた。このヘルメットには『神』と書かれている。これは神聖かまってちゃんの渋谷WWWのライブで客全員に配布されていた『神ヘルメット』というもので、まさか役立つ日が来るとは思わなかった。

万が一の時のために「玄関のドアを開けていたほうがいい」と思い、ドアを開けた途端、またお隣さんと遭遇した。恥ずかしいことに僕は神ヘルメット姿だった。「神ですか?」と尋ねられた。「神です」と答えた。僕は冷静さを失っていたのかも知れない。

テレビではACのCMが連続して流れている。「知層」に昇る若者の眉毛がキリッとしすぎているのに動揺し、仁科亜季子の娘の目が松方弘樹そっくりであることが唯一の救いだった。ちなみに実写版『忍たま乱太郎』の松方弘樹の特殊メイクが怖すぎて仕方なかった。それを思い出し、仁科亜季子のCMがいきなり怖くなった。むしろ仁科亜季子が松方弘樹と結婚したことに怖くなった。

世界各国からは日本への応援、祈りの写真や映像が見られた。それが一体具体的には何になるのか、という疑問は置いておき、人が人を思いやるのは万国共通であることを信じたいと思った。
しかし僕が気になったのは、フランスの祈り。インターネットで募った若者たちが何人か広場に集まり、それぞれが赤色と白色の格好をしており、カメラは空中から俯瞰で撮影している。
どうやら、みんなで日本国旗をひとつひとつの体で表現しようとしているらしい。
しかし、人数が思いように集まらなかったようで、赤い丸のまわりに白いのが転々とついているだけの、国旗未遂の映像になってしまっていた。日の丸弁当を梅干しだけ最後に食べようとして、最後に残った部分のようになっていた。下の画像の通り、僕が今日食べたご飯のようだった。

翌日、近所を歩くと子どもが遊んでいた。「エーッシーッ!」と裏声で叫んでいた。CMの影響力を知った。子どもが半ズボンだったら「エーッシーッ!ディーッシーッ!」なんだろうかと思った。
でも、子どもが遊び、ネタとして捉えているのには少し安心した。

1995年の阪神大震災の頃、小学5年の僕にとってACのCMは恐怖でしかなかった。
あの頃も多くの企業がCM放送を自粛し、ACだけが流れていた。当時のものを思うと、今は相当優しい内容になっている。当時最も強烈だったのは、アフリカの飢餓で苦しむ少年が何も入っていないビンの中を指でさぐり、その指を舐めているだけのCM。不穏な子守唄が流れる中、カメラは定点でずっとその少年を撮影している。トラウマという言葉を使わせてもらえるなら使いたい。「あーよぉーねーぇ」という歌声から、通称『あよねCM』と呼ばれている。いまだにそのCMのことを思い出すと、恐怖のあまり1人でトイレに行きづらくなる。

そして2011年。すべてのテレビは津波と地震と死者の数だけを伝える物と化し、当然ながらバラエティなどの番組は自粛された。

やがてテレビ東京がようやく普通のテレビ番組を放送した。『JAPAN COUNTDOWN』だった。普段では見ないような番組なのに、テレビに映るいきものがかりにこれほど安心したことはない。このときばかりは、いきものがかりもかみがかりだった。そして決定的なのは宮崎あおいのCM。また元気よくブルーハーツの歌を闇雲に歌ってほしいと願った。

阪神大震災の頃、僕に最も不安感を与えたのはテレビだった。アニメもバラエティもなくなり、娯楽を失った。いつもニコニコ笑っていたテレビが急に恐い顔をして笑わなくなったような、あの窮屈な感覚はいまだに忘れられない。
小学生の頃は敏感だった。余震の不安で寝付けず、両親がいるリビングの戸の隙間からこぼれる光を見ることで心を落ち着かせていた。「まだお母さんとお父さんが起きている」ということを知らせる光だった。
その光さえ停電によって奪われていく現状を知る。そして福島県の原子力発電所についての報道が始まる。外壁に損傷。従業員に被害。テレビは以前の原発の外観をずっと流していた。外壁がオシャレな模様だった。そのオシャレさとは裏腹な、異様なムードを醸し出すニュースが続いていく。

施設の損傷や計画停電により、映画館は営業を停止。多くのライブハウスもイベントを中止していた。
クリント・イーストウッド監督の『ヒアアフター』は津波のシーンが問題視され、上映終了。公開予定だった『唐山大地震』は延期。楽しみにしていた『世界侵略 : ロサンゼルス決戦』までもが公開延期。宇宙人が侵略するのも不謹慎なのだろうか。代わりに久しぶりに観ようと『第9地区』をTSUTAYAでレンタルした僕もどうかと思うが。
こういうとき、「不謹慎」という言葉があらゆるところで見られる。不謹慎の期限はいつまでなんだろう。不謹慎と言ってしまえば、いつまでも不謹慎ではないか。娯楽を与えることも、楽しむことも、厳しい目を意識してしまうなんて本当に窮屈でしかない。阪神大震災の頃の僕に最も辛い記憶を埋め込んだのは、娯楽を失ったことである。

そんな中、新宿Motionで3月17日にライブイベントを企画していた近所に住む長島君から、イベント前日にメールがあった。「相談したいことが」と。電話をとると「企画、実行するか中止にするか迷ってまして」と困っていた。以前からライブの撮影を頼まれていたのもあり、真剣に素敵なイベントにしようと考えていたのを知っていた。
個人的な気持ちとして「やってほしい」と答えた。
電車が止まったり、最悪、大地震が来たりすることも可能性として無いことは無い。そのあたりを懸念し、何とも決断しにくい状況だったと思う。
だけど、長島君は英断した。
翌日、節電のために薄暗い新宿の中を歩いた。建物の一階は電気が消えていたけど、エレベーターは動いていた。5階に着くと大きな音が鳴っていた。新宿Motionはこの日、約一週間ぶりに営業を再開していた。イベント中も地震があり、ライブハウスが揺れた。
しかし、このときに撮影した太平洋不知火楽団のライブは、自分にとって大切なものになった。
太平洋不知火楽団の『たとえば僕が売れたら』という曲の歌詞には「津波」もあれば「地震」もある。しかし、これは不謹慎なんだろうか。もしもの話、よくある話、たとえば僕が売れたら、地下にライブハウス兼シェルターを作り、地震が来ても、台風が来ても、戦争が起きても、隕石が落ちてきても、高いギターを弾いていたい。ありえないけどありえる、もしもの話。
歌うことに対しての、表現することへの、希望の歌だと思う。この状況で歌われるからこそ、より一層心に沁み渡るものがあった。
そして営業停止はライブハウスにとって大打撃に違いない。バンドにとっての表現する場が失われることへの阻止、そしてそのライブハウスへの敬愛を意味するために急遽イベント名は変更された。"Save the Motion"というものに。
節電による暗闇の中、何もかもが暗くて見えづらい分、はっきりとしたものだけが見えた気がした。
太平洋不知火楽団は久しぶりの撮影だった。この演奏には本当に震えた。プレートなんかよりも、バンドの演奏のほうが、誰かの、友達の表現のほうが、僕を震えさせるのだ。

太平洋不知火楽団【たとえば僕が売れたら】2011/3/17 新宿Motion

でも、日記には何の意味があるのだろう。
連日、テレビで放送されていく被災地の様子を見ていると、何も言葉が出てきません。

僕はテレビ朝日の『ドラえもん募金』に極少の金額を入れることしかできなかった。ドラえもんが好きだからこれにした。近所のスーパーは米が完全になくなり、ここ最近は袋に入った米を見たことがなかった。トイレットペーパーにも危機感を覚えた。以前、あれほどトイレットペーパーの芯を集めていた自分にとっては驚くべき展開である。芯でイスを作ったこともあるほどだったのに。
自分に出来る限りのことをやる。
でも、「出来る限りのことをやる」から先に進まないことだってある。出来る限り以上のことをやらなければ、前に進めないのかも知れない。何でもそうだと思う。その役割は、被災地以外の人が担っているのは確実だ。そのことへの自責の念や、焦燥もある。「みんながしているのに、俺は」という感情も出てくる。でも、正しいことも間違っていることも、誰が決めるわけではない。そんな当たり前のことばかりが震災の周囲には付きまとう。
阪神大震災の頃とは訳が違う。津波も原発の報道もなければ、計画停電もなかった。そして僕はそのとき小学生だった。大人になると、大災害でこれほどまで色んなことが見えてしまうのか。
神戸の仮設住宅はその後、何年間も残っている。身よりをなくした人が、その後どのような気持ちで生活するのか。ブルーシートに包まれた町を父の運転する車で走ったときのことを思い出す。テレビは参加型災害エンターテイメントのようで、過激な映像を競い合う。そんな感覚で報道していなくても、そのように感じてしまう。震災を期に、人と人との繋がりを知ることもあれば、人間関係に亀裂が入ることもあると思う。

阪神大震災を経験した関東在住の友人と次々と話す。みんな揺れるたびに「あの頃のことを思い出す」と口を揃える。
あの頃は「がんばろう神戸」だったけど、今は「がんばろう日本」であることを感じます。

神聖かまってちゃんの4月1日の両国国技館のライブは見送り。
心から楽しみにしていたので、知らされたときは正直「うそぉ…」と嘆いたけど、また別の機会で行なわれるのを期待し、楽しみは取っておくという感覚でいたいです。地震のとき、神聖かまってちゃんは4月から始まるテレビアニメの主題歌のレコーディングをしていた。元々配信する予定だったその日、地震直後に配信が行なわれていた。
やっぱり彼らを見ていると落ち着きます。落ち着くようなことは一切やっていないけど。

神聖かまってちゃん 地震直後の配信

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