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2009年12月22日火曜日

映画『母なる証明』

新宿武蔵野館でポン・ジュノ監督の『母なる証明』を。

母親の子どもへの愛は、気が触れるほどのものかも知れない。守るということは、何かを犠牲にすること。この映画の場合は、誰かが死んで、誰かが生きるということなのだろうか。

子どものような心を持った息子・トジュンを持つ母。彼が20才を過ぎても母はまだまだ溺愛しまくっている。そんな中、平和な田舎街で女子高生が殺害される事件が起きる。トジュンは殺人犯として逮捕される。母は泣き叫ぶ。
「トジュンがそんなことをするわけがない!」
しかし、殺人現場の近くにはトジュンがずっと持っていたゴルフボールがあった。証拠は十分。「この捜査は終わったのです」と警察。母は納得がいかない。トジュンも「俺はやってない」と否定。お金もなければ手段もない母は、息子の無実を訴え続ける。
「でも、私の手で真犯人を見つけてやる!うちの子は絶対やってないんだから!」
根拠なき大いなる確信のもと、たったひとりで息子の無実を証明する旅が始まる。それは同時に、母であることの証明でもあった。

観終わった後、誰かと語りたくなった。隣で観ていた見知らぬおばちゃんと無性に語り合いたくなって3分間くらいあとをつけたくらいだ。3分後に我に返ったくらいだ。5分後くらいにそのおばちゃんがジョン・レノン似であることに気付いたくらいだ。ソーディスイズクリスマーース!
そしてこの映画は主人公の母、つまりおばちゃんのアップが多い。しかも常にエモーショナルな表情をする。それでも、まったく疲れないくらいの映画だった。

「衝撃的な真実」は正直、予告編を観たときに想像できた。それにポン・ジュノ監督が「母親ががんばって真犯人見つけましたよハーイハッピーハッピー」みたいな映画を作るわけがない。ハッピーになった瞬間にアンハッピーな人が生まれることを無視しない。
そして『ほえる犬は噛まない』『殺人の追憶』『グエムル-漢江の怪物-』でも見せたジャンル不明かつ一直線ではない物語の運び方が健在で、ますますポン・ジュノ監督の秋葉原感バリバリの容姿はもったいない。

母が真犯人を探す過程がいちいち面白い。
人が殺されて息子が殺人犯にされている状況なのに、映画はシリアス一直線に描こうとしないのが見事なのです。
トジュンの悪友・ジンテとその彼女とのしりとりセックスを目撃したり、カラオケ中にも関わらず弁護士から精神病院の院長を紹介されたり、殺された女子高生の友達に生理用品を買いに行かされたり、うんこがくるくる回る携帯を見て「そのうんこの携帯いいわね」と言ったり。物語はシリアスなのだけど、映画自体はシリアスに描かない。
あくまでも母がシリアスなだけで、映画は母を視点にはしない。ただの被写体にも思える。どこかしら距離を置いているようさえ感じられた。

主人公には名前がない。周りから「お母さん」と呼ばれるだけで、劇中に一切名前が出てこないし、クレジットにも書かれていない。「お母さん」というのは関係を表す言葉。
名前を用意しないことで、この主人公を「誰にとっても母という存在はこんな感じです」とでも言いたげだ。普遍性を持たせているのかも知れない。
その証拠に、詳しくは書かないけどラストシーンは逆光の中、まるで他のおばちゃんと区別がつかない母の姿がある。それは映画の冒頭、荒れた草地で憔悴した表情で突然踊り始める姿に繋がり、なんとも言えない気持ち悪さ、そして気まずさを与えてくれる。
そう、気まずさなんです。 
「母親」を語る際、誰もが自分の母親について語ることになる。誰にとっても母という存在は世界に一人しかいないからだ。母は自分のことをよく知っている分、気まずい存在でもある。
それは、母が女であるという事実が大きい。
自分がどうやって生まれたのかを想像したり、オナニーの証拠を隠したり、息子なら尚更そうなのかも知れない、誰もが少なからず持っている気まずさみたいなものが、この映画を突き動かしているように思った。
トジュンもそんな気がした。
「母さんとしか寝たことがない」と呟いたトジュン。大人になりたがっていた彼は、母からの愛を嫌がる。愛というキレイな言葉でしか愛は表現できないけど、良いのか悪いのか、誰がそれを判断するのか。

映画のクライマックスでは、とんでもないことが起きる。
そのときに母が「どうしようお母さん…」みたいな独り言を呟く。これがこの映画の核心だと思う。母にも母がいる。母なる証明の手段はない。ただ、産んだ・産んでもらったという関係でしか表せない。なんとなく、皮肉すぎるセリフに思えた。

普段は温厚なトジュンだけど「バカ」と呼ばれたら異常にキレる性格であることも、回想シーンに大きな伏線があったとは思わなかった。
そして記憶を思い出せないのも重要なポイントになっている。
トジュンは無垢で純粋だからこそ怖い。母はそんな彼に愛があるからこそ怖い。少なからず『悪魔のいけにえ』の家族のような狂気さえ感じ、最後らへんの回想シーンでのウォンビンの演技は『真実の行方』のエドワード・ノートンを思い出した。

もう、ポン・ジュノ監督のかなり冷めた視点がたまらない。
女子高生の死体が屋上の端っこから垂れていて、それをのんびりと見つける田舎町の警察たちのセリフ。「『CSI:科学捜査班』を見てから動きがスマートになった」といった表現。りんごを口にくわえさせて殴るという拷問。
細部に渡り、リアリティと説得力、そして刺激的なエピソードが充満している。

しかし、韓国映画はどうしてこれほどまでセンスを持った監督が多いのか。
パク・チャヌクやイ・チャンドン、そしてポン・ジュノは歴史の浅い韓国映画史の監督であるはずなのに、歴史の深いアメリカのアレフレッド・ヒッチコックとマーティン・スコセッシとスタンリー・キューブリックに余裕で匹敵する。
映像の構図。軽快なセリフ。うろうろする物語。それでも訴えかけるテーマは一本筋が通り、作家性ょ貫かせる。そして何よりも単純に「おもしろい映画」を作る韓国映画界。
韓国映画の今後を考えただけでもワクワクする。低迷しているとか言われているけど、この3人の監督がいる限り、これからも強烈な映画が生まれることは確実でしょう。

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