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2008年12月5日金曜日

映画『ウォーリー』

ピクサー製作、アンドリー・スタントン監督の映画『ウォーリー』を観た。

人間は、いつか絶対に死ぬ。いくら金を持っていたって名声があっても、死んだらすべてが終了する。誰だって100年後にはこの世にいないだろうし、今ここに書いている文章の存在も確実に消滅する。
この映画は、そんな事実を温かく包み込むような映画のように思えた。
人間の存在が消えた後でも残るものが映っていた。
それは、映画や音楽だった。

29世紀の地球は滅亡していた。
地球は人類の住めない環境になってしまい、人類は快適な宇宙船に乗って、宇宙へ逃げた。そんな滅んだ文明の中を歩き回り、延々とゴミをスクラップし続けるロボットがいた。「ウォーリー」というゴミ処理用のロボットである。700年間、彼は地球にひとりぼっちだった。
彼は倉庫を住まいとし、その中で1969年に製作された映画『ハロー、ドーリー!』のVHSを見て、映画の中で人間の男女が手をつないでいる姿に憧れていた。そしてある日突然、宇宙から舞い降りてきたロケットからウォーリーの目の前にロボット「イヴ」が現れた。
彼は恋をした。
あの映画の男女のように彼女と手をつなぎたいと思った。

そして始まるウォーリーの一途な恋物語。
恋をしたことがある人なら誰もがウォーリーに自己投影し、ロボットであるウォーリーと人間である自分とを比較すると思う。そして人間にはいかに自由な意思があり、行動に制限されるものがないかがよく分かると思う。ウォーリーも、イヴも、ある作業をするために製造されたもの。
だから機能や任務には逆らえず、それが性のようにも描かれており、ただでさえもどかしい恋が、より一層もどかしいことになっている。

どうやらこの映画は、1931年に製作されたチャールズ・チャップリンの『街の灯』のリメイクらしい。
『街の灯』はもう何度観たことだろう。一途な恋物語であり、まぬけで不器用な主人公であり、まるでサイレント映画のようにジェスチャーで伝える『ウォーリー』は、『街の灯』との共通点が多い。

この映画は、ウォーリーが『ハロー、ドーリー!』という映画に出会わなければ物語にならなかった。誰かと手をつなぎたいとも思わなかっただろう。そしてルイ・アームストロングなどといった古い歌手の曲がウォーリーによって再生され、誰もいない地球に響き渡る。この世界観が、この映画の最もな個性だと思う。人類が遺した素晴らしい芸術が誰もいない地球で生き続けているという世界。この孤独が、地球を滅ぼした人類へのせめてもの賛辞に思えた。

すでに気候が狂い始めた地球はいずれ滅びると思うし、地球にとって人類は絶滅すべき存在だとも思う。
でも、この映画は人間に絶望していない。
1931年の『街の灯』から2800年の『ウォーリー』まで、なにひとつ変化のないことを描いていた。それは、人間の想像力で作り出されたもの、映画や音楽など、それらがいかに重要であるかということ。
そして、恋をすると、まるでロボットになったように、その機能と任務には逆らえないかのように、どう曲がっても捻っても止まることができないということ。

1931年、浮浪者チャーリーは花を売る女性に恋をした。その女性は盲目だった。
2800年、ゴミ処理用ロボット・ウォーリーは女ロボットに恋をした。その女ロボットにはある重要な任務が課せられていた。
チャーリーもウォーリーも、好きな人のために危険を冒してまで一途に突っ走っていた。逮捕されたり、宇宙に飛んだり、殺されそうになったり、壊されそうになったり。『ウォーリー』という映画は、『街の灯』への愛に満ちあふれていた。

そして観に来る人を楽しませることを一番に考えている映画だった。子ども、その親、カップル、映画ファン。すべての人を楽しませようとしていた。人が人を楽しませようと試行錯誤する姿は、『ウォーリー』の中でウォーリーがイヴを楽しませようと人類が遺した色んな物を見せて楽しませるシーンでも見られる。その姿はやっぱり愛らしい。『街の灯』でチャップリンがやっていたことに似ている。
だけど、『ウォーリー』と『街の灯』の違いはラストシーンにあった。
『街の灯』は、盲目だった女性がチャーリーのおかげで目が見えるようになり、あるとき、2人は再会する。しかし女性はチャーリーと手を握る前まで、浮浪者であるチャーリーを見て嘲笑っていた。手を握った瞬間、「あなたでしたの?」と言う。その表情は、深い。
普通なら感動の再会のシーンとして描かれるところをチャップリンはそうはしなかった。女性はチャーリーのことを金持ちの紳士だと思っていたが、目の前に現れたのは小汚い浮浪者だった。「見えるようになった?」と屈託のない笑顔で言うチャーリーに、女性は困惑の表情をし、悲壮感漂う音楽に乗せて、「ええ、見えますわ」と言い、『THE END』という文字。
美しいように見えて、残酷なラストシーンだ
一途なチャーリーの笑顔が痛々しく映る。

『ウォーリー』のラストも、残酷な展開が用意されていた。
だけど、ピクサーだからか、それともピクサーなりの『街の灯』への解答なのか、『街の灯』とはまた違うラストシーンが待っていた。この答えは人類への希望のように思えた。いつかはこの地球も滅びるかもしれないけど、そこに悲壮感漂う音楽もなく、『THE END』という文字もなかった。
ただ、観終わった後に残ったものは、映画や音楽など、たくさんの人の心を満たしてくれる、あらゆる作品への愛でした。
後半の展開はキューブリックの『2001年宇宙の旅』へのオマージュであり、作品全体はチャップリンの『街の灯』のリメイクでもある。

久しぶりに『街の灯』を観直した。
この映画にはすべてが詰まっているように思う。手塚治虫が生前、「どうすれば、人々の記憶に残る漫画が描けるのですか?」という質問に対して、「とにかくチャップリンの映画を観ろ。あれにすべての答えがある」と決まって答えていたようだ。それほどまで、人間にとって重要な映画なのだろう。
悲しいときこそ、おもしろく。
一言で言えば、それだけなのではないかと思う。
チャップリンは幼い頃に両親を亡くした。独裁者、アドルフ・ヒトラーも幼い頃に両親を亡くした。
二人は同い年で、誕生日が四日違い。どちらもチョビ髭で、顔が似ていると言われ、どちらも若かりし日は芸術家志望の青年だった。
共通点の多い二人が、どうしてこれほどまで違う道を歩むようになったのか。
それは間違いなく、チャップリンにユーモアがあったからだろう。
ユーモアがなければ。物を作る想像力がなければ。ユーモアと想像力に満ちあふれた映画や音楽がなければ、人々の心が満たされないような気がしてならない。

チャップリンとウォーリーを描いてみました。
人間とロボットですが、二人とも似たもの同士なのです。

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