年配の男女が大声で罵り合っている。ワンカップ片手に歩いているおっさんが言語不明な言葉を呟いている。壁にはじゃりん子チエが描かれているが、全く似ていない。
新世界のどのへんが新しい世界なのかは分からないが、俺の日常の光景から逸脱しているため、「斬新世界」と呼んでしまいたい、大阪の街。
あと約5ヶ月後に関西を離れる俺は、この日が久しぶりの休日だった。心斎橋での友人のバンドのライブを観る時間まで、時間を潰すために斬新世界の街を一人ぶらついていた。日本橋にある吉野屋で牛丼を食べた後にふと思った、
「関西の思い出になるようなことをしたい」
その願望が、通天閣近くのローソンの横を通って右に曲がったところにある成人映画館に足を運ばせた。
俺はその足を呪った。
そして俺の目先の欲望を、ただただ悔やんだ。

『浮気妻 ハメられた美乳』
簡略化されたタイトル。ポスターの中で女優が微笑んでいる。それに応えなければならないのが男の性だ。俺は浮気妻がいかにしてハメられるのかを確認すべく、一人、成人映画館に足を踏み入れたのだ。
館内は真っ暗だった。
通常の映画館のように足下を照らす誘導灯は一切なく、光っているのは、スクリーンと、客席後方の映写機から発されるランプ、緑色に輝く『非常口』の看板のみ。
まだ暗闇に慣れていない目で、スクリーンの光だけを頼りに、手探りで程よい座席を探した。アングルを気にした。もちろん、角度を変えてもスクリーンは平面なので景色は変わらないが、
「角度を変えると、見えないものが見えるかも知れない」
まるで誰かの名言のような文句を信じ、座席についた。
映画の内容は、轢き逃げしてしまった浮気妻が「その代わりにお前の身体をいただこう」と言われ、身体を許してしまいその身体を許すシーンが大半を占めているという内容だった。
響く喘ぎ声、とある効果音。
ようやく暗闇に慣れてきた目は、前の座席の後ろに貼られてある「日払い可、保証人不要」という見慣れない広告を見つけた。それは新世界というロケーションを存分に感じさせるものであり、人影の少ない成人映画館という非日常の世界と相俟って、
「これで関西の思い出がひとつできた」
俺はそう思い、満足げに、ひとしきり映画を観賞していた。
しかし、そのとき、空いているはずの映画館の俺の座席に人の気配を感じた。
「よっこいしょお」
それは、低い声と共にやって来たのである。
その瞬間、俺は手と股間に違和感を覚えた。
手は握られ、その手で強引に股間を弄られている。
この非常事態に俺は「あっ、わっ、」と小さな悲鳴を上げつつ、俺の手を握り、それを股間に追いやる原因を突き止めた。
おっさんである。
映画鑑賞中の突然の出来事に、引き続き「ちょ、あっ、まっ、」と言葉にならない悲鳴を上げる俺に、おっさんは優しく囁いた。
「怖がるこたぁない。こうしてればええ」
その優しさは要らなかった。その優しさは優しければ優しいほど、安心感とは反比例をしていた。
この劇場内で数少ない光を発する『非常口』の、本来の役割を求めた。
噂には聞いていた。
こういった成人映画館がいわゆる『ハッテンバ』と呼ばれ、ゲイやホモの方々が集まる場所になっている、と。
しかしそれは、行ったことのない者が噂や情報だけに惑わされているのかも知れないし、真実は自分の目で確かめないと信じることはできない。だから、実際にここに足を運んだ。
俺は、噂や情報を信じればよかった。
この足を呪った。
足は突然の出来事に応答せず、凍え、震え、身動きが取れなくなっている。それは決して11月の寒さのせいではない。
間違いなく、俺の股間を弄るおっさん。
タートルネックを着た、このおっさんのせいである。

そのタートルネックは何かしらの隠喩にも思えた。
おっさんはまだ男として成立していないかも知れない。ただ、決して女ではない。そのあたりが、タートルネックを意味のある服に感じさせてくれた。
「にいちゃん、いくつや?」
「23です。…おっちゃんは?」
「当ててみ」
突然のミニクイズが繰り出された。
正解しても何の得にもならないことは分かっているが、今、俺はおっさんに股間をマークされている。ここで当てなければ、この股間がどうされてしまうのか分からないのである。
「えっと…50くらいですか?」
「当たりや」
正解した。
とはいえ股間は常に弄られている。おっさんが俺の手を握り、その手が俺の股間へ。話題を作れば、話が逸れるように手も股間から逸れるのではないか、と淡い期待を胸に抱き、逆に質問をした。
「50何才ですか?」
「そんなんどうでもええ。にいちゃん、ここ初めてか?」
質問はあっけなく払い除けられ、手は股間から逸れることはなかった。
「そうですね、初めてですね」
「ここはな、ゲイやらホモしかおらんねん」
「ああ…ほんまやったんですね。噂では聞いてたんですけど」
「ほんまや」
「今、めっちゃ驚いてます」
「だから怖がるこたぁないがな。ほれ…」
突然、おっさんの握力が上がった。
同時に俺の股間への圧力もグーンとアップした。
「手伝ったろ」
「いいです。ほんま、いいです。こういうのは、自分で」
「なんや、にいちゃんは、こういうの(映画)見て、勃つんかい」
「まぁ、さっきまでは一応…」
「ほっほっほ!」
笑った!
「もう、でも、しぼみましたね。さすがに」
「なんでや」
「いや、おっちゃんが触ってくるから…」
「何言うとんねん。男はあかんのかい。ほれ…」
「ほれ」という言葉と同時におっさんの握力が強くなる仕組みがあることが分かった。過熱し始めるその手は、正直、温かい。しかしそんな俺の感性を全力で否定したい。
俺は『浮気妻 ハメられた美乳』を観賞したかった。たとえ大半が身体を許すシーンでも、結末を観るまでが映画なのである。それが俺の感性だ。タートルネックのおっさんの手の温かさだけは、俺の感性が許さない。否定するしかないのである。
が、否定しがたい大変な状況に置かれていることに気が付いた。
おっさんによって、劇場の通路が完全に塞がれているのだ。俺の左にはおっさん、右には壁。俺が逃れられないことを知って、おっさんはこの位置に腰掛けたのだ。
その通り、劇場内は『ハメられたたけうちんぐ』と化していたのだ。
スクリーンの中で女優が「あん、あん、」と喘いでいる。それに便乗するかのごとく、おっさんの手が俺の股間を操作する。呼応する。
「男もええぞ。ここには、男が好きなもんばっかおるぞ」
「あの…女の子には興味ないんですか?」
「あるっちゃあ、ある。せやけど、男のほうがおもろい」
俺はおもろくない。
時間の経過と共に強くなっていくおっさんの握力。手に力を入れて抵抗していたが、「抗っている様子が更に興奮させるのでは」という不安が募り、方向転換を目論もうと、発言した。
「手、あったかいですね」
「ほっほっほ!そろそろ勃ってきたんとちゃうか?」
笑った。逆効果だった。更に俺の股間を激しく弄り始め、ハメまくろうとした。ハメを外していた。そんなハメにあっている。
おっさんはまさに、このような状態になっていた。

「一歩先のオトコ」になろうとしていた。
タートルネックがますます恐ろしく感じた。すべてのタートルネックがそういうことなのではないかと脅えた。
おっさんが笑い声を上げたことで、人影の少ないはずの劇場内にもう一つ笑い声が響いた。そして、スクリーンの前で何かが動いた。人だった。
嫌な予感がした。
このままでは、映画の中の浮気妻よりも大変な結末を迎える気がした。
「今、何時ですか?」
「えっとな、20時8分や」
なぜか携帯を取り出して、律儀に時間を教えてくれた。
「僕、そろそろ行かないと」
「まだええやないかい。こうしてればええ。怖がるこたぁないで」
「いやいや…」
「おっちゃんが優しくしたろ」
「あの…僕みたいに何も知らずにここに入ってくる若い人っているんですか?」
「おるで。みんなの餌食や」
餌食?
みんな?
震え上がった。
スクリーンの前を横切った人影、どこからともなく聞こえてくる笑い声。おっさんが「みんな」と言い表す存在を劇場内に感じ、俺の股間を弄る手が一本では済まない状況が始まる予感がした。
タートルネックは一人ではない。複数いる。
暗闇の中でこのようにスタンバイをしているのではないか。

ビートルズの2枚目のアルバム『With the Beatles』のジャケット。
これはまさに、暗闇で俺の股間を狙っているタートルネックたちを表しているに違いない。
もはやタイトルにある「With」も恐怖でしかない。
これからHard Days Nightが始まるのかも知れない。おっさんの「こうしてればええ」にはLet it Beのようなものを感じない。俺は自分のREVOLVERに危機感を覚え、Helpと叫ぶに違いない。
おっさんが求めるGet Fuck。
これも一つの、アッーDay in the Lifeなのだろうか。
「餌食って…そうなんですか」
「高校生の子で、おっちゃん目当てで来る子もおるで。かわいいもんや」
「高校生っすか…」
「あのへん(スクリーン前を指差して)で、かわいがっとるで」
「…すごいですね」
高校生が餌食となっているという怪情報。俺の周囲にビートルズが待ち構えている恐怖心。一刻もここを早く抜け出さなくては。しかし、俺はおっさんと壁に囲まれている。そう容易に逃げ出すことはできない。
「あぁ…あぁ…」
ついにおっさんが喘いだ。これは大変だ。スクリーンの中の女優の喘ぎ声とセッションを始めた。アンソロジーに収録されるつもりか。タートルネックは完全に脱皮し、おっさんが最終形態に向かっていることは容易に想像できた。
「あぁっ…」
おっさんの握力が一瞬弱まった。
今や!!
俺は足を大きく上げ、座席に立った。そして大きくジャンプし、壁によじ上った。
「僕もう帰ります!!」
「帰るんかい!!」
おっさんの叫び声が後ろから聞こえた。
それは寂しげでもあった。
しかし、聞こえないふりをして壁を通り越え、猛ダッシュで劇場入り口へ突っ走った。
無事、俺は劇場を抜け出した。
結局、美乳がどれくらいハメられたのかが分からないまま、大阪の街を歩いた。すれ違うおっさんすべてが俺の股間を狙っているような錯覚を覚え、特にタートルネックには背筋が凍る思いをした。
新世界、いや、斬新な世界を見せていただいた。
帰宅後、その成人映画館をネットで検索した。掲示板があった。そこには『女装してスクリーン前にいます』などと、情報交換がされてあった。この掲示板を先に見ていたら、俺は股間を弄られることも、ビートルズに恐怖することもなかった。股間があらゆるタートルネックからAll Need is Loveられることもなかった。
翌日、俺は寂しげにYesterdayを口ずさんだ。
おっさんの手の温もりは、残酷にも俺の記憶に刻み込まれた。
彼らの楽曲がおっさんの気持ちを表していたのだ。

「I Want To Hold Your Hand.」
ビートルズよ、そういうことだったのか。
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